フェイスブックの「よくないね」ボタンの真意と「違う違うそうじゃない」感
フェイスブックが新しいボタンを追加しようと画策しているみたいだ。
それはよくないねボタン(dislike)ではないらしい。
フェイスブックをいい悪いの投票の場にしたくないとのこと。
ボタンによって新たな共感を得るような、そんな表現を模索しているみたいだ。
これは投稿者のため?読者のため?
読者からしてみたら、likeボタンだろうがsorryボタンだろうが、どちらでもいい。というより増やさないで欲しい。そこの感情をいちいち整理して、「この場合likeだと不謹慎だから、、sorryボタンかな」というステップを踏むのが面倒くさくなると思う。読者からしてみたらボタンが増えることのメリットはほとんどないと自分は思う。
一方で投稿者からしてみたらどうだろうか。悲しい記事を出したのに、likeボタンが押されてることがそんなにも精神的にくるのだろうか。自分はほとんど投稿はしたことがないので真にその感覚はわからないが、ようするに投稿することによって自己承認をしてほいのであれば、その共感のベクトルが「悲しい」なのか「かわいそう」なのか「がんばれ」なのか、そんなことは気にしないんじゃないかと思う。いや、そこまでの明確なベクトルを示せるのであれば有用かもしれないが、そこまで分岐してしまったらもはや”コメント”に近くなってしまうのではないか。ようするに読んで何かしらのことを感じたということが感じ取れればいいのではないか。
とどのつまり、このような新しいボタンなんかいらないんじゃないか。と思うわけだ。
だったらこれでよくない?
もうそういういろいろな感情全部ひっくるめて「共感」ボタン作ればよくないか?
悲しい記事でも、ポジティブな記事でも、共感って言っちゃえばどっちでも対応できるじゃないか。なんだか本質からずれてる感がスゴイするんだよな。
そんなことよりこのボタン作ってよ
それはdislikeボタン
ただし誰にも表示はされないように。アルゴリズムの改善とかに利用して欲しい。明らかなスパムの、2chのまとめ記事を転載して途中までで切って続きを読むにはイイネしてくださいっていって、それをイイネしたらまた自分の友達の何人かにその投稿が流れるっていうチェーンメールみたいなもの。あれを早くとっぱらえって話だ。一部のアホがいるおかげでタイムラインのクオリティが下がっていく。だからdislikeボタンの割合が一定以上になったらもう表示しないようにとかして欲しい。
あとは自分にとって有益でない情報を発信し続ける人を表示させないようにして欲しい。自分がページを開かなければ自然淘汰されるっていう話ではあるかもしれないが、流れてたらやっぱり見てしまうのが人の性じゃあないのか。
というわけでfacebookさんは、アルゴリズム改善のためのdislikeボタンを作ってください。というお話でした。