嫌なことをやって成長するのか、嫌なことをやらないで成長するのか
僕は大学に入ってから色々と成長する機会があったと思う。
それは特に人との関わり方に関することが多かった。
そのなかで自分なりに試行錯誤して改善していったことが多かったのだけれども、今思い返すと自分が成長したパターンは二つに分けられる。
嫌なことをやって成長
これは自分を追い込んで追い込んで、自分の限界を引き上げるという考え方だ。
ピッチャーで言えば球速を上げるようなことだと思う。
筋トレで言えば辛い時の最後の1回みたいなことだと思う。
具体的には、人見知りだった自分がそれを克服する際に、多くの初対面の人に会ったことだ。
人見知りゆえに本来ならば知らない人に会うのは辛いのだが、荒療治というか、結局リアルなコミュニケーションの中で得られる情報量は桁違いに大きい。
嫌なこと、やりたくないことではあったが、これによって自分の対人能力の限界値は引き上げられたように思う。
嫌なことをやらないで成長
これは自分の出来ることの中での精度を高めていくという考え方だ。
ピッチャーで言えば制球力をつけるみたいなことだと思う。
筋トレで言えば柔軟で肩の可動範囲を増やす的な?
具体的には、芸人のラジオを聞いてふたりの間で面白い会話とはどうなされていくのかということを考えたり、コミュニケーションに関する本を読んでそのエッセンスを自分の中に取り入れてみたり。
結果的には効果的ではあったと思う。そういった知識やケースの蓄積が自分の中での自身になって、会話が上手く出来たこともあった。
どちらか片方だけではうまくいかない
例に挙げたもので、わかりやすくいうと本番と練習という風に位置づけられるのだが、どちらか一方だけ極めても成長はしづらいものだと思う。
栄養素の樽のように、どちらかだけを極めても他の要素で足りてない部分があるならばそこから水は溢れ出てしまうのではないかと思う。
自分の人見知り克服も、座学と実践両方あって初めて成り立ったものだと思う。
特に嫌なことをするのは、精神的にも辛いと思う。まずは嫌なことをやらないで成長できるところまで成長してしまったらいいと思う。その上で伸び悩んできた時に、初めて嫌なことをやってみるというのもいいのかもしれない。