自分のアイデンティティはなんなのか、傍から見てどれだけ面白い人間なのか
自分は社会の中でどれだけ換えの効く人間なんだろう。ふとそう考えることがある。
自分の能力の完全なる上位互換な人間はこの日本に、同年代にどれだけいるのだろうか、と。
イケダハヤトさんのこの対談記事を読んで殊更そう思う気持ちが強くなった。
自分がどれだけ面白い人間か。学生時代面白い人間でも、それがリクルートに入っちゃったらただのリクルートのすごい人。新人賞をとったとしてもそんなものを取ってる人は山ほどいる、と。おもしろくない、と。尖った学生がただの優秀な社会人に成り下がってしまう、と。
アイデンティティは無限ループか
この日本で有象無象の中からあるアイデンティティで色を出すと、次はその色の中でまたしても違った色が求められるか、はたまたその色の濃さを求めるかどちらかだ。
勉強が取り柄で灘に入ったtehu氏が、その中では勉強ができることは決してアブノーマル(=アイデンティティ)にならなかった、と言っていたのがしっくりきた。
そこでの勝者はさらに上のトーナメントに進み、そこで勝ち上がればまた更に上に進む。一人だけが優勝するような世界、ここでアイデンティティを見いだせる人間はひと握りどころじゃない気がする。
アイデンティティはポートフォリオ
とすれば、自分がアイデンティティを見いだせるのは、複合的な能力でしかない。
google検索で、「ブログ」だけじゃ1ページ目にも表示されないが、「ブログ 私立トップ 考察 大学生」と検索したらようやく1ページ目に出てくる感覚と似ている気がする。いやそれよりも、バイト探しで、「大学生歓迎 高時給 東京 PCスキルが身につく 週1~OK」で検索して1件しか出てこないみたいなことだろうか。
無意識にそう言った考えが働いてか、自分の中で一つを極めたいというよりは、様々なスキルをつけたい磨きたいという思いがずっとある。
・絵を上手くなる
・ピアノを引けるようになる
・トライアスロンを完走したい
そして
・ブログを書き続ける
こうした小さいタグをたくさん身につけて検索結果に残るようにする、というのが当面の自分の面白さ追求だ
ただやっぱり一つ何かに特化していると一気に順位が跳ね上がるから、メインの何かは作りたいと切実に思う。