今日は穀潰し

穀潰しにならないように頑張ります。パン派です。

不快に感じて安心することがある

先日久しぶりに合う人と話したのだが、そのときになんだかよくわからない違和感を感じた。感じたというよりは思い出したという方が正しいかもしれない。しばらくの間、多くの人に会わなかったり、自分が好きな人にしか会わなかったせいか、人と話す耐性というものが低くなっていたのかもしれない。

その人と話していてなんだかすごく嫌な感じがした。

 

話のテンポが合わない。というよりは相手が合わせようという気がない感じがした。前にあったときにはこんなに嫌な気持ちにはなっていなかったのだが、自分の耐性がなくなったのか、前にも嫌な気持ちになっていたのを忘れているだけなのかわからないが、とにかく人と話すことでのストレスを感じた。

 

不思議なことにそれと同時にどこか安心した自分もいたのだ。

自分は人と話していてストレスを感じる人間なのだと確認できたことでなぜか安心できた。自分がいつも付き合っている人は自分が本当に心地いいと感じる人であって、ただ単にたまたま同じコミュニティに所属していた付き合いがだらだらと続いているだけではないのだなあと認識することができたからである。

 

就活でも、会社説明会でどの企業もよく見えてしまい説明会に行くたびに志望企業が増えていくのはある意味では怖い。中には「ここはクソだな。行きたくない。」と思える企業がないと志望している企業は本当に望んでいるのかと自信がもてなくなる。そういう意味で僕はクソみたいな企業の説明会でも、ほかの企業への志望を確認できたという目的で行く意味は感じていた。

 

マークシートの試験で、偶然か作成者の意図か3が10個くらい続くとしよう。どれも自信がある回答で、そのときにその10個の並びの中にひとつだけ2が紛れ込んでいたらなんか安心するような気持ちと一緒だ。(これはよくわからないな…)

 

平日があるから休日が楽しめるようなことだろうか。

 

 

 

ともかく、僕が普段付き合っている人たちはそれは流れに流れ着いて今に至る人たちなのだなあとひしひしと実感した。

そういったことを実感するために、自分が本当に好きなものに時折雑音を入れてみることでそれへの愛を再確認することができるんじゃないだろうか。

 

洋楽好きな人もたまには演歌を聴いてみて、やっぱ演歌はよくわからん、洋楽最高ってなればいいし

彼女大好き人間もたまにはほかの女の子と遊んでみて、やっぱ彼女大好きってなればいいんじゃないかな

 

あれ?意外とこれもいいかもしれないってなればもうけもんだし、とかく新しいことを取り入れてみることはいいことだ。

特に好きじゃない人と会うことは、好かない理由を自分の中にもないかどうか再確認する意味でもとても有意義なんじゃないかと感じた。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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