価値観はある特定のコミュニティの内側でしか共有できない
「一般的に考えてさ」「常識で考えてさ」人生生きていれば必ず一回は聞いたことがあるし言ったことがあるであろうこの言葉たち。
ほんとずるいよねこの言葉たちは。一体全体何が一般的で、何が常識かなんて決めるのはその人の一般観、常識観でしかないのに。
ネクスト!
「常識的に考えて」はどこでの常識?
ほんとにこの言葉使う人嫌い。頭悪いと思う。言われてる方も多少は非がある場合が多そうだけども、常識で考えて行動してたらその結果にならなかったはずなのに、それをぶり返すように「常識で考えたらわかるでしょ?」というのはどうなんだろう。
”この先危険!”の文字が読めるくらいの年齢の子供だったら「あ~この先は危険そうだな~」というのは直感的に分かるだろ。むしろそれが読めないくらいの小さい子供に対しての警告をしろよ!っていうやつと同じ構造だ。
日本での常識がほかの国では非常識になることも往々にしてある。日本では出された料理は全部食べきるのがマナーになっているが、中国では出された料理をちょっと残して感謝の意を示すのがマナーになっていたりする。
同じ日本国内においても関東ではエスカレーターは左並びだが関西では右並びが常識となっている。
このようにところ違えば常識なんてものは変わってきてしまう。
同じ所に住んでいても、ある業界での常識がほかの業界での常識とは全く異なるものとなることもある。
もっと身近なところでは、4,5人のグループの中でも同じように常識という価値観は作られる。
中学高校大学で集まる人のスクリーニングの仕方が違うのだから当然それによる遮蔽も出てくる。
極論を言えば人が2人以上集まったときそのコミュニティでは常識という価値観が生成されるのではないか。過半数を占める価値観が有無を言わさず”常識”と認められてしまうのだ。ここには論理も何もない。単なる感情による多数決しかない。
ネクスト!
どこに焦点を当てるかは難しい
大学の3,4人のグループの中では自分は非常識な人間だとみなされても、その枠を広げて大学の学科の数十人の中では常識人とみなされることもある。かと思えば大学を出て社会一般で見たらやはり非常識な人間だとみなされるかもしれない。
まるで色の違ったマトリョーシカを重ねるように、自分を取り囲むコミュニティの規模が変わればその評価=常識は異なるものになっていく。
その中の一つを反転させれば自動的にそのほかのコミュニティにも波及していくというものではないけども、某かの影響はもたらすものとなると思う。
こちらで常識人と思われれば、どうやってもあちらでは非常識人と思われる。そんな状況もある。
ネクスト!
そもそも正解を出す必要すらないんじゃないか
コミュニティによって自分の見せる価値観を変えることで、そのコミュニティ毎の常識に合わせることはできるかもしれない。だが果たしてそんなことに価値はあるのだろうか。自分が常識的だと思われることに一体全体何の価値があるというのだろう。
2人以上のコミュニティで常識は生成されると思っていたが、何も2人以上である必要はないんじゃないか。
自分の中で常識を作ればいいんじゃないんだろうか。
結局どの階層に焦点を当ててみても、そのコミュニティを剥がし剥がし移動させてしまえば必ず非常識となる場所があるはず。であれば、その剥がして剥がして剥いて剥いて最後に残った”自分ひとり”というコミュニティのなかでの価値観に準拠し、常識とみなすことができれば満足なのではないだろうか。
つらつらと書いてきたが、結局は自分の芯を持っていれば他人の常識や目を過剰に気にすることないんじゃないか、という自分への励ましでした!読んでくれてありがとう。
以上!
by米食い