キラキラネームに頼らないと個性を出せないと考える親たち
名前は親から与えられる最初のプレゼントというけれど、プレゼントなんていう生半可なものではないなとふと最近思った。
むしろ言うなれば「烙印」ではないか。
プレゼントなら、自分が気に入らなかったり、ある程度使い込んだらもうお役御免にしてしまっても構わないが、名前となるとそうはいかない。
70年間なり80年間なり自分の人生を歩んでいくという中で、その一番大きな見出しとなるものが、他人から与えられたものであるということには少しばかりの違和感?でもあるし面白さを感じる。
「おれはひとりで生きていくんだい!」
とか
「親は糞」
みたいな論を唱えている人も、みんな親からもらった名前でそんな意見を発信しているわけで、矛盾というか、結局の人一人の力の及ばなさを思い知らされるといった感じだ。
そんなわけで、今回は少し名前について書いてみる。
キラキラネームは個性か
この記事は、みんながキラキラネームになったら逆にキラキラネームが個性的な名前じゃなくなっちゃうよ?
といった内容だった。
それもそうであるが、僕の考えとしては、名前の奇抜さでしか個性を発揮できないような個性を親は期待しているのか?ということだった。
詩羽楊(じばにゃん)(実在するらしい)
という名前をつければ、そりゃ確実に個性は生まれるけども、それっていうなら出オチじゃないの?
エンタの神様に出ているような色物芸人と同じじゃないの?
そりゃ名前に付随した鉄板トークなんかもできて出だしの面白さは確保できるかも知れないけどもさ、その鉄板トーク吐き出しちゃったら、もう上がりきったハードルを回収する手立てはないんじゃないのか…?
なまじある程度名前だけで食っていけるくらいのインパクトはあるから、本人が没個性にならないための努力をしなくなるかもしれない。
だから田中太郎なんていうありきたりな、いかがわしいサイトに登録するときの偽名の定番みたいな名前でも、そのなかでも本人に個性があればそれが一番いい個性になるんじゃないのか。
五郎丸は五郎丸だから良かったものの
五郎丸なんてものその最たるもの。
五郎丸だからこそ、五郎丸という名前でギリやっていけるけども、五郎丸が五郎丸じゃなかったら大変なことになっていたはず。名前負けしていたはず。
「どうもぉ!五郎丸っぅす!!!」
と自己紹介されたら「おぉ…五郎丸くん!!素敵!抱いてっ!」
ってなる
名前と容姿がとても一致しているからだ。
あといい体だからだ。
しかしだ、
「どうもぉ~五郎丸っぅす~」
と挨拶された日には、「なーにが五郎丸だ!ふざけやがってっ!」
先輩部員にいじめられる。ボコられる。下手すりゃ掘られる。
本当に五郎丸の名前は五郎丸が引き受けてくれてよかったよ…
ニッチな市場で戦うのか
話は戻るが、要するに僕が考えるにキラキラネームをつける親は、逃げだ。
陽介とか、亮とか、圭介なんかのメジャー(メジャーじゃない?)な名前ではもし仮に苗字までかぶった時にgoogleで検索したら、自分よりもそのメジャーなやつが出てきてしまうから、それを恐れて奇をてらった名前にするという理論もあると思う。
だからこそわざとありきたりな名前にして競合に打ち勝つように苦労させるのも一興ではないのか。ライオンが我が子を崖から突き落とすみたいなかんじで。
というわけで、僕も将来、パソコンで打ってスペースキー3回位の変換で出てくる名前をつけたいなと思っているという話でした。