「自分がやられて嫌なことは人にしない」というエゴ
よく小さい頃に、「自分がやられて嫌なことは人にしない」なんて口酸っぱく行ってくる人がいなかっただろうか?僕の周りにはそんなにいなかった気もするが、とかくこういう決まり文句をなんの恥ずかしげもなく言ってくる人がいる。
けどそれってすごくエゴなことなのではないかと最近思う。
他人がやられて嫌なことは他人にはしない
これが正しい教えじゃないだろうか。
「自分がやられて嫌なことは人にしない」という教えは、自分の価値観はほかの人にも通用するものだと思い込ませてしまうのではないか。特に小さい子にこんなワードを使いながら諭そうとする親は、もしかしたらとんでもない自分中心の価値観を埋めつけてしまっているのではないだろうか。
自分の能力、思考をベースに物事を考えるようになる。たとえば頭のいい人は自分が頭がいいという前提で、お前頭悪いなーといじられてもそんなに苦ではないだろうが、本当に頭が悪い人からしたらそれはすごく傷つくことになりかねない。
自分がやられて嫌なことは人にしないは必要条件か?
では、はたして最低限守らなきゃいけない倫理なのか?
これも違うような気がする。もちろん殴る蹴るなんかは多くの人がやられて嫌だが、自分がいじられるのが嫌いだからといって人をいじるのは悪とするのは違うと思う。むしろそうしてあげることがその人のためにもなりうる。それはその人の反応を見て考えなきゃいけないことだ。その観察し、考える手間を「自分がやられて嫌だから」という理由で思考停止で省いてしまうのはどうなのか。
つまり僕は自分がやられたら嫌なことでも、人にはやっていく。これがその人が嫌なのかどうかは見誤ることは多いけど、それでもその試行錯誤の中で失敗していって成長していくしかないと思っているから。多少グレーなところにも踏み込んでいってでも安牌は切りたくはない。
まあこの考えを知り合いの界隈で言うと集中砲火浴びるけどねたぶん